子育てと仕事に奮闘する女性の話を聞いた。
真剣に生きる人は素晴らしい。
ネガティヴに書くと、母親という仕事は24時間365日休日無し、夜間呼び出し無制限、早朝&夜間勤務手当、宿直手当、危険特別勤務手当など一切無し、なんなら基本給も無い。場合によっては夫や子どもからの感謝も無し。この世のブラック労働の極みである。
(男性もそうだが、)女性にしかできない仕事がある。それは本当に尊い。私はまず、そう思っていることを話した。
彼女の話の詳細は割愛するが、ざっくりまとめると家事や育児の分担の話だ。こう言ってはなんだが、どこの家庭にもいつの時代にもある一般的な話だ。だが、それが暮らしを共にするということであり、当事者にとっては重大事件だ。
私はズボラな部分と几帳面な部分を併せ持っている非常に面倒臭いヤツである。
以前女性と同棲していた時の話だ。掃除洗濯ゴミ出しなどの負担は、半減とまではいかないが減ると思っていた、が、間違いであった。私の方が多かった。はず。最初はなんで俺ばっかり、と思って不満タラタラでこなすのだが、よくよく考えてみると、頻度や基準が自分の方がどうしても気になるので、仮にルールなどを設けて均等に分担しても、それはそれで、やっぱりどこかが気になってしまい、結局は自分でやってしまうだろう、ということだ。
もう一つ話したことがある。彼女の旦那さんはとても努力家なのだ。彼のことをとても詳しく知っているわけではないのだが、見ていて思っていたことは、そんなにがんばるとは思わなかった、ということだ。仮にも、自分に向いていない(と思っている)ことや、自分よりも能力がある、役に立つ人がいる(だろうと思っている)場所で、努力し続けることの大変さはわかっているつもりだ。それをやり遂げ、かつなおも途上にいる彼は本当に素晴らしいと思う。
「得意でできちゃいました」的な人は、私はあまり面白くないと思う。パフォーマンスとしては社会に価値を提供するかもしれないが。対して、苦労した人間や、何かを乗り越えた人間の内面には、なんとも言えない凄みがある。私はその美しさを信じたい。これは私の、才能に恵まれなかった(と思っている)ことによる一種のひがみでもあるのだろう。
悩んだことや苦しんだことは、のちの人生で役に立つ。何かを解決したわけでもなく、彼女はただ元気を取り戻して会話を終えた。
以前は男性との方が話が合うと思っていた。いや、女子の女子女子した上っ面マシマシマウントカラメ社交辞令全部乗せトークが苦手だった。最近はそうでもないと思う。というか、上記のような集団における女子が苦手なのであって、個人で話すとそうでもないと知った。
男性はファイターなので、心を許していても、どうしても一定のところで自分の弱いところを見せないことが多いように思う。女性は普段は表面上平気なふりをして取り繕うことが多いのだが、一度ダムが決壊すると、放水量は限界を知らない。この人には言っても大丈夫だと思ったら、ドロドロの世界を見せてくれる。それが面白い。
思考や感情を素直に話せる関係は素晴らしい。