独りという社会実験を行なって4ヶ月が経つ。所属の感覚はもちろん無く、似た経験を持つ人も周りにいないという意味で本当に独りだ。現時点でこの極端な条件は私には向いていない気がする。トレーダーで部屋に引きこもってひたすら画面と向き合っている人ってこんな感じなのか?と思う。こういうのはやってみないと分からない。人間関係に疲れたという人はやってみたらいい。話し方が気に食わないと愚痴っていたあの人とか、ゴミ出しをサボる家族とのいざこざも、実はあなたが欲しているものの内側にあるのかもしれない。
頭で考えるのではなく、感じるでもなく、ある時に身体に出るから、合わないものは嫌でも知らされる。私は風邪などほぼひかなかったのだが、2022年の9月以降、3月までの間に2回ほど体調を崩した。日常的な人間関係がほぼ消失したからなのか、物事が思い通りに運ばないストレスによるものか、あるいは単に季節の変わり目だったからなのかはわからない。
属してはいたが引越した当初は快適ささえあった。いつどこで誰と何をしていようと、この街にいる人は一人として私のことを知らない。自由で、なんてストレスが無いんだと思った。反面、たまに会う母なるマザーやお父さんたちと話すと自分のことを知ってくれていて安心する。
受験会場はいつも、紺色のパスポートで髪を染めた若者が半数以上だ。私など見た目こそ若いが最高齢の部類で、日本人ではこの歳で挑戦する人が珍しいだけなのかもしれないが、これでよかったのだろうかという思いがよぎる。もっと、何も考えずに流されて、なんとなく生きていくことができれば、J-POPをいいよねーと聴いて、美容脱毛して流行りの髪型にして、週末はコストコに買い物に行った後にネットフリックス見て、外でもマスクする感じで生きていけたら、どんなに楽だったろうかと思う。
俺は何のために何をやっているんだろうと思う。この資本主義社会において、貴重な20代の全てと30代前半を稼げないスポーツに全投入したのは、経済的な側面のみを考慮すると、ある種の失敗かもしれない。何も残っていない。そしてさらに、すっからかんになりながらまた金にもならず不透明な未来に全力を注ごうとしている。もちろん、経験したすべてのことは、お金では得られない、貴重なことだ。
死ぬ直前になって、もっと遊べばよかった、がんばらなくてよかった、と思うのだろうか。酒も飲まず、クリームもなめず、夜の街に遊びに出かけず、自分を訓練し続けた日々を後悔するのだろうか。迷いはある。正解を教えてくれよ!と叫ぶ。一時的に間違いがあったとしても、トータルでは間違っていないと信じたい。いや、間違いなら間違いでいい。面白くない正解はAIと優等生に任せておこう。間違って失敗してこそ人間だ。涙とともにパンを食べたものにしか人生の味は分からないし、パンすらも食えなくなった時は、きっと天からケーキが与えられるはずだと思いたい。私にケーキをください!
大切なものは失ってからでないとわからないが、本当に失わないといけない。私は一人の時間は必要だが、独りは苦手らしい。自分のためというよりも、何か大きなもの、大義のための方がエネルギーが湧くらしい。
そして確かなことは、人生は、「今」の「これ」しかない。
もっと早く知っていれば、もっと早く取り組んでいれば、もっと早く出会っていれば。それは悪い感情ではなく、大きすぎるものでもないけど、後悔ばかりだ。
人生はいつだって本番だし、でも死ぬまで練習だし。だから今しかない。今、情熱を全力で傾けるしかない。という、残念ながらありふれた、しかし至高の結論に帰結する。