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乗れない社会人選手権
社会人選手権のコックス選考に落選し、その後の国体関東ブロックに出場するという期間を過ごした。
また、書くことを止めてしまった。落選が恥ずかしいことかといえば、そうではない。コースで見ればすぐにバレる。そうではなくて、完璧主義ゆえに、きちんとしたものでなければならないとか、そういった思考が邪魔してしまうように思う。
別に正しいも間違いもないし、自由に表現すればいいのだが。
人は何に苦しむのか
落選はキツかった。落選したという事実よりも、付随するコメントと、それをどう理解すれば良いのか、それに対して自分が付け加えた様々な言葉を反芻することによって、むしろ苦しんだ。
- 後輩に負けた
- 自分は劣っている
- これほど経験の差があっても負けた人だと周囲に思われている
- 全く受け入れられていない
- 俺はこれだけ考えて行動したのに
- こんなにもチームに提案して貢献したのに
- どうして理解してもらえないのか
スポーツや、当落選に限らず、人間ならば誰しも経験することかもしれない。選ばれなかったことは、必ずしも劣っているという意味ではないが、どうしてもそう捉えてしまう。
「のに」が付いたら大抵不満だ。「こんなにやっているのに(、どうしてあいつは)。」と世界の側の誰かや何かを悪くする。不満を言う。不満を言っていることを自分で察知したら、そういう自分に今度は不満になる。自分はしょうもないな。何をやっているのか。と、どんどん悪化していく。
自分を含む誰かや何かを悪者にしていてもいいが、そうするとそのループからは抜け出せず、進歩や進展はない。発見することや気づけるものはない。そのことに気づいて、ようやく自分を見つめ始める。幸いにも、話を受け止めてくれるチーム外の人や、アドバイスをくれるチームメイトの存在があり、救われた。
おかげで次の行動をとることができた。無しフォアクルーの録音をさせてもらったこと、素直にアドバイスを求められたこと、特にマネージャーの先輩に頼って質問したことは収穫だった。
初めて外から見る
また、冷静に考えると、レースに向かっていくファーストクルーを外から見る経験というのは初めてのことであり、これはこれで面白いものでもあった。
その過程にも、自分の様々な葛藤はある。上手くいっていることが嬉しい反面、自分でなくてもよいと突きつけられたような気分にもなるし、上手くいっていない時は、上手くいってほしいと願う一方で、俺が乗っていればとか、ほら見ろと思わないこともない。アスリートとしては持っていないといけない感情と受け入れるべきことかもしれないが、その汚さに悩まないわけでもない。
喜びは一瞬にして消える
国体の関東ブロックは会心のレースだった。このレースを経験できたことはチームにとって大きいと思う。
そんなわけで減量も終え、一区切りがついた。オッ盾も中止になったので、本当に全日本まで。少し気を抜こうと、食べたいものを食べる。減量明けでも意外と食べられるが、体調はよくない。ジャンキーだから当然か。1日で2kg増えた。というか戻った。
食べても食べても満たされない中で思う。この満たされない感覚が何かに似ている。おそらく、ブランドものを買っても、いくら高級品で着飾っても、例えばリゾート地の高級ホテルなど、どこへ行っても、究極的には満たされないんだろうなと思う。
オリンピックと自分
自分は一体何がしたくて、何のために生きているのだろうか。一つ明確になったことは、自分の存在価値が欲しいということだ。自分でなければならない、必要とされたい。
オリンピックがとうとうやってきた。出たいと思っていた。が、もしかしたら、そうした感情を満たすために、自分を肯定するためにオリンピックを利用したかった、必要だっただけなのかもしれない。
ひとりになりたいと思うことも多い。集団での共同生活が続くからだろう。ひとりで過ごして思うことは、結局、人と話したくなるし、何かを食べるにしても、どこかに行くにしても、だれかと分かち合っていなければ喜びは小さい。
ふと、ああ俺は、自分の全てを受け入れて許してくれるような存在に甘えたいのだなと思う。きっとこれにも落とし穴があって、最終的には自分で自分を受け入れて許すことができなければ、どこまでも満たされない海の中を泳ぎ続けることになる。ただ、その境地に達するまでは、誰かの手を借りたいとも思う。
自分とは一体何なのだろうか。何者なのか。人生は続く。